初めての茶会に参加してきました
2005年 06月 05日
今日、はじめてお茶会に参加してきました。
お道具を見て、なんともきれいで「すごいなー」と思う。
参加してみて、所作はひとつひとつをきっちりすることが大事だなと感じた。
よく真行草というけれど、やっぱり真の動作として、きっちりしてないのに省略した動作をやると美しくない。
というか初心なのだからそういうことしても行や草を表現できなく、単に自分がやりやすいだけの所作どまりにしかならないのは当たり前なのだが。
慣れない場でそういうことを見直すのはとても勉強になる。
初心忘れるべからずである。
「千利休と日本人」も読み終えて、なかなか面白くはあったのだが、禅の突き抜けた世界を善しとして、その観点から千利休を評価するという話より、その後に読んだ茶道とほとんど関係ない本に書いてあった「日本社会の中核にはスノビズムがある。」とか「無意味な行為を無意味と承知した上でコミットする。」とかそういう言わばひどい言われようの方が新鮮であった。
厳密には新鮮というよりは「やっぱりそうきたか。」という気持ちに近い。
そういう見方に対して、いかなる姿勢をもって臨むのか。
スノビズムといわれても仕方がない上で、その内面にそれを超えたものを確立する、そこに表れるものが「日本の文化」なのか、それとも「自分の世代の文化」どまりなのか、むしろ「そういう類いの人たちの文化」にすぎないのか。
そんなのが自分の感じている問題意識なのだろう。
そして、問題意識を感じていながら、自分自身がどこまで取り組めるかということ。
特殊な何かではなく、日常こそ取り組むべき大問題である。
うまくやった、目立った、いい面を見せた時の自分ではなく、日々の暮らしでやっていることが自分である。
ちなみに茶会の待ち合わせ時間には遅刻した(泣)
お道具を見て、なんともきれいで「すごいなー」と思う。
参加してみて、所作はひとつひとつをきっちりすることが大事だなと感じた。
よく真行草というけれど、やっぱり真の動作として、きっちりしてないのに省略した動作をやると美しくない。
というか初心なのだからそういうことしても行や草を表現できなく、単に自分がやりやすいだけの所作どまりにしかならないのは当たり前なのだが。
慣れない場でそういうことを見直すのはとても勉強になる。
初心忘れるべからずである。
「千利休と日本人」も読み終えて、なかなか面白くはあったのだが、禅の突き抜けた世界を善しとして、その観点から千利休を評価するという話より、その後に読んだ茶道とほとんど関係ない本に書いてあった「日本社会の中核にはスノビズムがある。」とか「無意味な行為を無意味と承知した上でコミットする。」とかそういう言わばひどい言われようの方が新鮮であった。
厳密には新鮮というよりは「やっぱりそうきたか。」という気持ちに近い。
そういう見方に対して、いかなる姿勢をもって臨むのか。
スノビズムといわれても仕方がない上で、その内面にそれを超えたものを確立する、そこに表れるものが「日本の文化」なのか、それとも「自分の世代の文化」どまりなのか、むしろ「そういう類いの人たちの文化」にすぎないのか。
そんなのが自分の感じている問題意識なのだろう。
そして、問題意識を感じていながら、自分自身がどこまで取り組めるかということ。
特殊な何かではなく、日常こそ取り組むべき大問題である。
うまくやった、目立った、いい面を見せた時の自分ではなく、日々の暮らしでやっていることが自分である。
ちなみに茶会の待ち合わせ時間には遅刻した(泣)
by wanderingpoet
| 2005-06-05 20:06
| 日常の万理